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6・25天皇来沖阻止闘争に決起〈沖縄〉(1112号5面)

青年実と沖日労が阻止闘争に決起

 6月25日、天皇上陸阻止沖縄青年実行委員会と沖縄・首里日雇労働組合は、天皇来沖阻止闘争に決起した。青年実は、天皇来沖が「6月下旬」とマスコミ報道された時期から、天皇来沖阻止闘争を訴えてきた。5・15沖縄人民解放闘争では、「5・14キャンプ・キンザー包囲デモ」に全国から結集したメンバーに向けて「沖縄戦は天皇制攻撃に敗北した結果。ウチナーンチュはアジア労働者人民虐殺に手を染めた痛苦な歴史を持っている。われわれウチナーンチュ青年は、この歴史を反省し、反戦・反基地闘争、反天皇闘争を闘う。6月に予定されている天皇来沖を、沖縄とヤマトの革命的共同の闘いで阻止しよう」と呼びかけ、6・23「慰霊の日」の闘いでは、「第31回国際反戦沖縄集会」に結集する参加者に向けて「天皇来沖を阻止しよう」と訴えてきた。青年実と沖日労は、2012年11月に「全国豊かな海づくり大会」への出席を口実とした天皇来沖と対決し闘いぬいた地平を後退させることなく、弾圧態勢をはねのけ断固として起ち上がったのである。

 午後4時過ぎ、青ヘルメットと青ゼッケンで身を固めた部隊が、パレットくもじ前(那覇)に登場する。広場の中央では沖日労の赤旗が掲げられる。梅雨明け前の土砂降りの天気であるが、部隊の士気は高い。ただちにビラ撒きとアジテーションが始まる。「『対馬丸撃沈事件』70周年を口実に天皇・アキヒトが来沖しようとしている。対馬丸撃沈で亡くなった学童や引率の教師たちが眠る『小桜の塔』を参拝し、生存者や遺族にも声をかけたいと言っている。亡くなった方々はそんなことを望んではいない。『ふざけるな!』と怒りの声をあげているに違いない。誰がこの方々を殺したのか。天皇制の下での皇民化教育が原因ではないのか」「1975年海洋博のアキヒト来沖時には『ひめゆりの塔』前で火炎瓶が叩きつけられた。1987年海邦国体時には『日の丸』焼き捨て決起が闘われた。1990年代以降のアキヒト来沖に対しても阻止闘争が闘われてきた」「天皇制攻撃と対決し、反戦・反基地闘争とひとつのものとして反天皇闘争を闘おう」「7月辺野古ボーリング調査前の6月来沖にこだわったのは、辺野古の闘いを鎮圧することが目的だ。反共・右翼ファシストの介入・破壊を許さず、名護新基地建設を実力阻止しよう」「『集団的自衛権の行使』容認に突き進む安倍政府を打倒しよう」。翌26日に天皇来沖が迫る中で、部隊の断固たる訴えに多くの市民が注目し、ビラは吸い込まれるように受け取られていった。学校帰りの中・高校生や修学旅行生も手を伸ばしてくる。ビラを手にしたある男性は「天皇は来なくていい。がんばって」と声をかけていく。
 権力、反共・右翼ファシストの敵対・介入を封殺し、約1時間にわたる闘いを貫徹した。

 天皇・アキヒトは6月26日から27日にかけて来沖した。アキヒトの来沖は、皇太子時代を含めて10回目である。今回は「対馬丸撃沈事件」70周年を口実とした来沖であった。

反天皇闘争の飛躍を切り拓け

 「対馬丸撃沈事件」とは、1944年8月22日に学童疎開船「対馬丸」が鹿児島県悪石島付近で米潜水艦「ボーフィン号」の魚雷攻撃によって沈没し、学童、引率教員、一般疎開者を含む約1500人が犠牲となった事件をさす。「対馬丸撃沈事件」は、「軍隊は住民を守らない」として語られてきた日本軍の凶暴な本質を浮き彫りにするものである。1944年3月に沖縄配備された第32軍は、同年7月の「サイパン陥落」を受けて地上戦を想定した態勢づくりを急いだ。多くの住民を陣地構築や飛行場建設などに動員し沖縄の猴弸媛臭瓩魏誕したのである。他方、軍事作戦の足手まといになるとして老人や児童らの大規模な「県外疎開」を方針化した。日本軍は、米潜水艦がうようよする海上に住民を放り出したのである。米潜水艦から追尾されていた「対馬丸」は、魚雷攻撃であっという間に沈没し学童らは真っ暗な海に投げ出された。同行していた護衛艦は救助活動をしていない。木材や筏にしがみついて漂流し、やっとの思いで生き残った者たちを待ち構えていたのは、厳しい「緘口令」である。撃沈の事実が明らかとなれば、制海権が米軍の手中にあることがばれてしまう。「日本軍の敗勢」を示す制海権の喪失は何としても隠蔽する必要があった。そのため「対馬丸撃沈」は「軍機保護法」における「軍事上の秘密」に当たるとされ、生存者を厳しい監視下に置いたのである。日本軍は制海権が奪われていることを承知の上で「疎開計画」を推進し、その必然的結果として多くの住民に犠牲を強制した。日本軍にとって住民の命は2の次、3の次だったのである。実際に日本軍は多くの住民を殺した。軍民混住の下で軍事機密を知りうる状況におかれた住民を爛好僖き瓩箸靴撞垰Δ垢觧件を各地で引き起こした。戦場をさまよう住民に銃剣を突きつけ、食糧を強奪し、壕を追い出し砲弾の下に放り出した。「集団自決」も強制した。こうした日本軍の数々の蛮行は、天皇制護持のための「捨石作戦」として強制された沖縄戦の実相だ。したがって沖縄戦の体験の継承において、天皇制との対決は不可避である。

 6月27日、アキヒトは「小桜の塔」と「対馬丸記念館」(いずれも那覇市内)を訪問し、「対馬丸事件」の生存者および遺族との懇談を行なっている。アキヒトは「同じ時代を生きた犠牲者」に関心を示したとされる。アキヒトのこだわりは、狢佛牢櫃糧畄爿瓩鵬江陲鬚け天皇制の戦争責任を清算し居直り、反戦・反基地闘争の根幹にすえられている戦場体験を天皇制の下に取り込んで無力化することにこそある。われわれは、こうした天皇制攻撃に対して一定の屈服が進行していることも批判する必要がある。例えば「戦時遭難船舶遺族会」は、戦時遭難船の犠牲者が祀られる「海鳴りの像」への天皇参拝をわざわざ宮内庁に要請している。天皇制攻撃への敗北・屈服そして積極的な受容は、再び沖縄青年を日本帝国主義の尖兵として差し出すことに結果する。絶対に阻止しなければならない。

 われわれは、6・25天皇来沖阻止闘争に決起した地平を引き継ぎ、反天皇闘争を推進し飛躍を切り拓く決意である。