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東北関東大震災被災労働者人民支援大運動を

福島原発事故と反核・反原発運動ぁ 988号8面)

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 福島原発事故と反核・反原発運動
川原六郎

原発が推進されてきた根拠

 すでに細部はともかく、原発が他の発電法と比較してコストが太刀打ちできないことは明らかであるにもかかわらず、利益追求の企業である電力会社が何故そのコストを対外的にゴマかしてまで原発を推進してきたのか、また現在も稼働させようとしているのかが問題となる。
 短期的な問題として、現在時点の態度の原因は簡単である。まず、原発の停止とその部門の廃止は、直接にはそれにかかわる人間の食い扶持がなくなることに直結することになるわけであるから、電力会社の3分の1近くを占める原子力畑の人間が反対するのは当然である。それ以外でも、原発停止はそれまで投資してきた資本がむざむざと廃棄される運命におちいるわけであるから、電力会社総体としても反対するわけである。原発は、建設費は高いが、減価償却後は稼働すればするほど金を生み出してくれるのであり、逆に稼働させずにおくことが負担になるという存在なのである。しかも、原発コスト総体は高いといっても、それは電力会社がそれを負担しないで済むような仕組みができあがっているのである。原発立地のための資金は、交付金という税金でまかない、廃棄物処理の費用の「積み立て」こそあるものの、処分場建設費用やそのための研究費用も税金が大半を占めているのであり、これまで電力会社はそのコストを気にしなくてもいいようになってきたのである。さらに、電力料金は、設備投資額をそのまま積み上げるという「総括原価方式」を採用しているため、コストなど気にする必要がないのである。日帝足下の電力会社は、その生誕経緯ともかかわる地域型独占企業としての性格から、コトそのものを気にする必要がなかったということである。すでに、多くの報道機関でも暴露されてきているのだが、原発をめぐっては「原子力村」と言われる利権集団が形成されている。これらは、原発の存廃に利害をともにするわけであるから、必死になるのは当然である。この「原子力村」に直接入っていない場合でも、電力会社は電力供給者であるばかりでなく、巨大な製品需要先でもあるので、この意向を無視することはほとんどの企業にとって重大な圧力がかかることになる。さらに、原発は、製造―稼働の各段階においてすでに産業関連のなかに重大な位置をしめているのであり、まだ海のものとも山のものともつかない「自然エネルギー」への転換に乗ってわざわざ電力会社の利害を損ない、利益共同体から排除されることを選択する企業が少数派となるのは当然なのである。
 企業利益だけから言えば、福島原発事故の結果は、いずれ「損益」の問題として全企業―全産業を規定していくことであろうが、そもそもコストに合わないはずの原発が「国策」として推進されてきたという根幹の秘密がさらに存在する。それは、原発は「原子力の平和利用」を掲げながらも、その根幹で結局は原爆製造能力―核武装能力と一体のものとしてあるということである。日帝の原発推進は、1953年の原子炉築造費の予算計上に始まるが、「これをやらなければ、日本は四流国になる」という言葉に示されているように、「一流国」―核保有国への道を意識していたことは間違いないのである。表面上は「エネルギー源の安定確保」「供給源の多様化」―「準国産エネルギー」を掲げながらも、「現在は政治状況から核武装は困難」でも、核武装能力だけは確保しておくこと、が隠されたその目標であり、それは支配階級総体にとっての暗黙の合意だったのである。だからこそ、コストに関係なく原発を「国策」として電力会社に推進させてきたのであり、そのコストを隠すために「電源立地三法」や核燃料サイクルのための税金支出をおこなってきたのである。「もんじゅ」に象徴される高速増殖炉が技術的にも不可能で、現在どこの国でもやっていないのに、日帝だけが推進しているのは、どう見てもプルトニウムの精製を合理化するためであり、プルトニウム混合燃料を既成炉で燃やすプルサーマル計画を、四パーセントのコスト高になるにもかかわらず電力会社に押しつけたのも、プルトニウムの精製を理由づける必要があったからなのである。国連の安保理常任理事国が核保有国とイコールなのは、公然の秘密であり、反革命世界秩序の維持が、核拡散防止条約(NPT)と緊密に結びついているのは言うまでもない。この反革命世界秩序を乱そうとすると見なされた場合にどうなるかは、イラクのフセイン政権をみてもわかるとおりである。日帝は、現在も核武装への志向を断念してはいないのであり、「現在は政治状況から核武装は困難」でも、核武装能力だけは確保しておこうとしているのが「国策」なのである。このことは、現在も国連安保理常任理事国入りを断念してはいないことにも明らかである。たとえ、当初「核抜き」の常任理事国入りを果たしても、中華民国(台湾)が常任理事国からはじき飛ばされた政治力学の論理は現在も変わっていないのであるから、常任理事国入りはいっそうの日帝の核武装への衝動を強めるものとしかならないのである。

原発と原爆の技術的関連

 ここで注意しておかねばならないのは、原発と原爆が基本的にはまったく同一の技術の上に成立しているということである。原発を稼働させる技術があれば、すぐ原爆製造が可能になるのであるが、これは原発が原爆製造から派生したからであり、単に「原子力の平和利用」といったものではなく、現在も密接に関連しているからである。
 科学技術的側面からいうと、原爆は、ウラン235の連鎖反応によるものと、プルトニウムによる2種類があり、広島に投下されたものがウラン235、長崎に投下されたものがプルトニウムを原料とするものである。すでにウラン235の連鎖反応―臨界については述べたが、プルトニウムはこの連鎖反応―臨界の過程で周辺に存在するウラン238が中性子を吸収した結果としてできる放射性物質である。このプルトニウムは、ウラン235と似た自然崩壊をおこすのであるが、はるかに放射線の毒性は強い一方で、連鎖反応―臨界をおこし易い。だから現在、原爆は通常はプルトニウムを原料とするものが一般的であり、ウラン235を原料とするものは特別な用途にのみ使用されている。プルトニウムは、精製されたものを実験室でくっつけただけで臨界がおころうとしたという逸話があるほど臨界を起こしやすく、毒性が強いので、そもそもこれを原発で使用しようなどというのは、原発の危険性を増すだけのことなのである。しかも、出る放射線の量がウラン235より多いので、炉が痛みやすいとされているのである。
 1942年にシカゴ大学で建設された原子炉は、連鎖反応―臨界が実際におこるのだということを実証すると同時に、その過程でできるはずの新物質―放射性物質を研究するために建設されたものである。連鎖反応―臨界は、自然に存在するウラン238とウラン235の割合ではおこらないので、ウラン235を濃縮する必要があるのだが、ウラン238とウラン235は化学的にはまったく同一の性格なので、質量(比重)の違い―物理的性格の違いを利用した遠心分離法、ガス拡散法などを用いて濃縮することになる。
 第二次世界大戦のなかで、米帝によって原爆の製造が実行に移されたが、この過程ではウラン濃縮とウランの連鎖反応―臨界によるプルトニウム製造―精製が進められ、これが二種類の原爆に結実したのである。これら二方向のプロジェクトが並行してすすめられたのは、爆発実験をおこなうまで、連鎖反応―臨界が爆発となるかどうか、現実にははっきりわからなかったからである。原発は、1950年代になって、この原子炉でのプルトニウム製造過程ですさまじい熱量が発生して冷却の必要のあった過程を、発電に利用できるのではないかとして建設されてきたものなのである。
 だから原発稼働は、原爆製造の過程とまったく同一であり、原発稼働にあたっては、ウラン濃縮が必須であり、プルトニウムの発生が必然になるのである。このために、NPTを根拠に国際原子力機関(IAEA)の査察がおこなわれ、場合によっては、イラクの場合のように「大量破壊兵器」(もっとも主要な対象が核兵器)の「開発」を理由に戦争さえおこなわれ、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対するように戦争の恫喝のもとに国際的圧力がかけられたりするのである。
 現在、青森県・六ヶ所村で建設が策動されている核燃サイクル施設は、ウラン濃縮、使用済み核燃料の処理・貯蔵―プルトニウム精製・製造をおこなおうというものであり、核兵器製造と表裏一体のものでなのである。プルトニウム製造は、どう理由をつけても原爆製造以外に実用化されていない。プルサーマル計画は、すでに述べたように、コストが四パーセント上昇するという数字が出されており、高速増殖炉は各国が技術的に困難として撤退したものである。そもそも使用済み燃料の処理技術などが現在でも完成していないのは、あいつぐ六ヶ所での事故が示すとおりである。
 まったく同様のことが、原子力船「むつ」についても言える。「むつ」は1974年に原子炉臨界直後に事故をおこして、結局廃船になった。その技術的なお粗末さはともかく、原子力船などというものは世界のどこでも商業用には実用にはなっていない。炉がとる容積の関係で、コストに見合った積載スペースがとれないのである。そんなことは最初からわかっているのに、「むつ」の就航をゴリ押ししたのは、軍用の船舶用原子炉のデータが欲しかったからにほかならない。このように、日帝の「原子力政策」は、軍事技術の獲得と一体のものなのは明らかである。

原発と労働運動、現地住民との関係

 現在、福島原発事故によって、多数の周辺住民が塗炭の苦しみを強いられている。そして、事故現場や周辺では、多くの労働者が放射線被曝にさられ続けている。政府にしろ、東京電力にしろ、「十分の注意」を言い続けているのであるが、これまでも放射線被曝症を労災として認めてこなかった現実があるのであり、「原発ジプシー」と言われる下請け、孫請けの実態があるのであり、二次、三次の被曝拡大は必至である。こういった労働は、東京電力の労働者によるものはほとんどなく、「協力会社」と呼ばれる下請け、孫請け、さらには札束で頬をたたかれて集められた日雇いの労働者に押しつけられている。
 これは、単なる本工主義というだけではない、歴史的に形成された原発を推進する反革命労働運動としての本質が要因となっているのである。電力総連は、1951年の「電気事業再編成」にともなう電気産業労働組合の破壊を前提に形成された反革命労働運動を基礎にしたものである。1951年の「電気事業再編成」は、「電力の安定供給」を旗印におこなわれたが、その裏の主題は、狎鏝綢莪譴粒很心瓩砲いて戦闘的労働運動の一翼を担った電気産業労働組合の解体でもあったのである。国鉄分割・民営化にあたって、電力会社の分割がその手本とされたのは、こういった労働運動解体の実例があったからなのである。つまり電力総連は、国鉄―JRにおける動労―JR総連と同じ役割を果たしてきたのである。このような歴史を持つ電力総連は、当然にも原発推進の旗ふり役を果たし続けてきたのであり、現在もそれを先頭で続けている。電力総連出身の小林、藤原は、現在も民主党内の原発稼働推進の急先鋒となっている。こういった部分が原発による放射線被曝から労働者を守る運動に敵対するのは当然であり、労働運動内において反原発運動破壊の先頭に立ってきたのもこの部分である。電力会社内部に公然と反原発を掲げる労働運動があるか、無いか、というのは原発建設阻止の成否にとっては重大な問題である。実際、中国電力がもっとも原発の数が少ないというのも、電気産業労働組合の系譜を引く中国電産労が極少数となりながらも反原発を掲げる労働組合として残っていたという歴史があったからなのである。
 電力総連のような労働組合を解体しないかぎり、汚染された原発事故現場の労働者の命を守ることなどはできないし、反原発運動の労働運動内での発展もありえないのである。すでに見てきたように、東京電力は経営破綻しているのであり、東京電力労働者は犖共性瓩鮗臘イ垢襪覆蕁原発推進の尖兵としての役割を自己批判し、再建―自主管理の主体としての飛躍をかちとっていくしかないのである。
 原発立地地区住民が「電源立地三法」の交付金によって自家中毒状況にはまり、自主的経済的自立からほど遠い状況にあることは、すでに報道等でも明らかにされている。地域住民と言っても、「電源立地三法」の交付金を受けていた自治体とそうでないところではまったく状況が違う。南相馬市の市長が訴えたように、直接立地地区以外の周辺住民は、一方的に原発被害をうけているのであり、原発被害の拡大とともに、この「電源立地三法」の交付金による弊害が明らかになりつつある。いわば「電源立地三法」の交付金の札束で頬を叩いて原発を押しつけた結果は、原発や核施設に依存しなければやっていけない地域の現実があるとはいえ、金で故郷と生活基盤を売ったことになるのである。事故のあとには廃墟しか残らないのであり、地域での生活ができなくなるしかないのである。福島原発にかぎらず、およそ核施設の大事故のあとでは世界中のどこでも除染のできない廃墟ができるのである。現在、多くの原発立地地区で原発再稼働の動きがあるが、これは、自らの将来を売り渡すに等しいものであるばかりでなく、その外側の周辺住民の運命をも運命共同体として巻きこむものである。原発立地地区住民だけの利害で、このようなことを決定することなぞ許されない。

福島原発と被災地の他の原発、核施設の状況

 福島原発は第一原発の一号機〜四号機が事故を起こしてクローズアップされているが、それ以外(第一原発の五・六号機、第二原発の一号機〜四号機)も同様の揺れを受けたわけで、配管はすべて同じだけの打撃―損傷をうけてもおかしくないのである。実際、第一原発の五・六号機は震災後に使用済み核燃料プールの水温が上昇する状態になったのであり、非常用タービンが稼働していなければ第一原発四号機と同様の状態になってもおかしくなかったのである。第二原発の一号機〜四号機も一、二、四号機で原子炉冷却用ポンプが故障するという事態が発生しており、一時期温度が不安定になっている。電源を確保できたかどうかが、事故としての進展をたどったかどうかの分かれ道だったのであるが、いずれも損傷をうけているのである。特に配管の損傷は、外部からではわからない状況であり、もはや運転自体が危険な状況である。そもそも、福島原発は第一のみならず、第二原発も20キロ圏内瓩砲△襪錣韻如△海里茲Δ幣貊蠅砲△觚業を稼働させられるのかどうかは、考える必要がないことである。もし再稼働があるとすれば、人員の安全を無視した話である。
 宮城県・女川原発は、揺れ自体は福島原発よりも強かった可能性が高いので、配管の打撃―損傷はより大きいと考えられる。女川原発は、一号機がタービン建屋で火災を起こし、二号機は建屋地下に海水が侵入した状況である。また、すぐ近くの原子力防災対策センターが壊滅的な被害を受けて使用不能になっている。この原子力防災対策センターは、国と県の現地対策本部が設置される予定だった建物であり、資機材や通信機器がおかれていた。そもそも、津波はあと80センチで原発の全施設を覆ったとされているのであり、その80センチの差が福島原発と同様の事故にまでならなかった唯一の理由なのである。いずれにせよ、配管のダメージなどは、運転自体が危険な状況にあるのであり、「復旧」が可能とはとても思える状況ではない。さらに、4月7日の余震では、外部電源が一部停止し、地震後の約一時間冷却機能が停止する事態になっている。その上、使用済み核燃料プールの水が漏れだしており、危機一髪の状況になっているのである。
 青森県・東通原発では、定期点検中で使用済み核燃料プールに燃料棒が取り出されている状況だったのだが、3・11の際は宮城、福島ほど揺れが大きくなかったため最悪の状況にならずに済んでいる。ところが、4月7日の余震では、外部電源が全面停止し、復旧は翌日になり、約20分間冷却機能が喪失している。外部電源停止中は、非常用ディーゼル発電機を使用したのだが、翌8日にはこのディーゼル発電機が燃料漏れで動かせなくなっている。外部電源が回復した後だったので大事に至らなかっただけで、再度外部電源がダウンすれば、福島第一原発四号機と同様の状態になっていたわけである。前に述べた、非常用電源車の話は、この時の話しである。
 青森県・六ヶ所の使用済み核燃料再処理工場では、3・11、4・7ともに外部電力が停止しており、非常用発電機による使用済み核燃料冷却、高レベル廃棄物冷却がおこなわれた。ただ、冷却プールの水漏れが報道されており、ここでも危険性は高まっている状況である。
 以上見てきたように、被災地での原発、核施設はいずれも損傷をうけており、稼働する事自体が非常に危険である。また災害への備えがあったとはとても言えない状態だったことが明らかになっている。

現在、闘いに必須なことがら

 事故現場での問題については、原子炉の周辺に岩盤に達するまで地下遮蔽壁を建設して注水管理をおこなうことが優先事項となるのは言うまでもない。さらに津波に備える防波堤を建設し、そこに海への汚染地下水の流出を防ぐ地下防水壁を建設しなければ、新たな津波で大量の放射性物質が拡散する事態が考えられる。現在やっていることがすべて無駄になっていく可能性があるのである。それ以外は、よい考えがあれば教えてほしいものである。
 飛散した放射性物質については、測定しながら管理を考えていくしかないのだが、放射性物質そのものを無くすことはできないので、この移動には注意が必要である、埋めたり、移動することで、「事態が終わった」とするようなゴマかしを許してはならない。放射性物質に汚染された水や瓦礫、そして原子炉と燃料の残骸の処理にはさらに注意しなければならない。現在、「汚染水処理」「瓦礫撤去・処理」が進められているが、汚染水の海中投棄や瓦礫の移動は決して許してはならないのである。また数十年後とされる「廃炉への工程表(案)」にある「撤去」も、それが技術的に可能なはずがないという以前に、事故炉の放射性物質を動かそうと考えるなぞ許してはならないのである。これらのことは、放射性物質の拡散であり、危険の拡大にほかならないからである。
 ここで注意しなければならないのは、原発の「解体・撤去」には注意しなければならないということである。今回の原発事故を見てもわかるように、事故炉の「解体・撤去」がそもそも技術的に可能かどうかという問題がある上に、それが放射性物質の移動(拡散・悪用)をともなうということである。使用済み核燃料の移動は危険な上に、意識的か事故としてかはともかく、プルトニウムをはじめとする放射性物質が出てくることを意味するのである。運動上、歴史的にも「むつ」の廃炉を方針化し、それを実現してきたことはあるし、「事故炉」とは言っても「もんじゅ」の廃炉はまだ技術的に可能であろう。しかし、政府の言うような福島原発の「廃炉」=「解体・撤去」なんぞは、絶対に許してはならないのである。
 すべての原発を停止させることを追求することから開始しなければならないのであるが、現在、福島原発の事故が「収束」する気配さえ見せず、事故原因も明らかでないのに停止原発を稼働しようという動きがあることを絶対に許してはならない。これは、原発をめぐる利権がいかに根深いか、さらにその政治的背景が深いかを示している。新たな原発の建設はもとより、原発の稼働開始を許してはならないのは当然のことなのであるが、特に震災被災地の原発は、損傷が深いのであり、これを稼働しようというのは暴挙であり、許してはならないのである。そして原発のみならず、各施設、とりわけ六ヶ所の核燃サイクル施設の建設・稼働の中止をかちとらなければならない。
 こういった諸問題のネックとなっているのが、東京電力の経営主体の問題である。すでに「国有化」とか「支援」とかいう段階をこえる破綻状況なのに、なまじ中途半端なゾンビ状態にしておくから、事故現場に金を出さず、避難した人間への賠償金、被害農家・漁民への賠償金を恣意的に遅らせ、原発の再稼働をもくろみ、政治的に裏で画策するなどの悪さをするのである。「損害賠償支援法」は、東京電力が原発部門を存続すること=原発を稼働し続けることを前提とした法体系であり、「原子力損害賠償支援機構」はさらに原発事故がおこることを想定して他の電力会社が金を出すことになっている。ここには、東京電力が原発部門を温存したまま存続して、これに国が「支援」するシステムをつくろうとするばかりで、原発をやめるという選択肢がまったくないのである。つまり「損害賠償支援法」では、金を出すか出さないか、どのように出すかが、あくまで(原発部門が温存されたままの)「私企業」としての東京電力の裁量範囲にあり、ただ賠償金や原発処理で経営が困難になった東京電力に「支援機構」(実質的には国)が金を注ぎこむことが続くだけになるのである。これでは、現在の企業利益の延長線に事態が進展するので原発の存続は必至であり、他の原発会社もその線上でしか動かないのであるから、原発推進は続くのであり、九州電力の「やらせメール」をはじめとした悪さがなくなるはずもないのである。原発事故をおこした会社は潰れる(すでに潰れている)のだ、という当たり前のことを確認することから出発しない限り、電力会社が原発をあきらめることは有り得ないことははっきりしている。いずれにせよ、東京電力に賠償金を全部出せるはずもないのはわかりきっているのであるから、賠償金などをどれだけ出せるかは管理会社の権限として明確にし、あとは原発部門を分離した公共事業として再出発するしかないのである。送電部門と発電部門の分離や電力の買取りなど、懸案となるようなことがらは、この過程で整理してはじめて建設的な進展がありうることである。それが、どのような構造で進展するのかは、労働者人民の闘いの進展の度合いと質、東京電力内の労働者の主体形成の度合いによるであろう。
 もう一点は、事故の政治責任を徹底して追及することなしに、原発問題に決着がつくはずがないということである。菅の政治責任は当然であるが、それ以前に原発を推進してきた自民党や政府与党だった公明党が、あたかも菅の「危機管理能力」を非難することによって自己の責任をのがれようとすることを許してはならない。ここには、日帝の戦略的核政策が暴露されることを回避しようとする目的意識的すりかえがおこなわれているのだ。同様に、菅が自らの政治的延命だけのために狠Ω業瓩魴任欧独晋業の世論に乗っかろうとするような政治利用を許してはならない。原発を停止するかどうかは、危険性や経済的コストの問題では決着がついているのに、政治的背景の問題がその根幹にあることは、すでに述べてきたとおりである。結局、ここへ問題が収斂していくのであり、このことの突破なしには反原発運動の勝利はあり得ないのである。菅が狠Ω業瓩鮓世うとするなら、この点こそが問われるのである。この点をあいまいにした運動は、結局敗北を運命づけられていくことになる。このことを明確にして反核・反原発運動の勝利をかちとろう。
 (了)